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日本人の長所の一つは武士道的一所懸命の精神だといったら、否定する日本人はまずいないだろう。
韓国の小中高生のベストセラー「遠い国近い国」(原題먼나라이웃나라)という各国の歴史や風俗を書き記したシリーズの日本編にも日本人の特性は「一所懸命」というひとことに表せるという。
まさしくこの「一所懸命」または「一生懸命」(一生懸命という言葉は一所懸命という言葉から派生したものである。諸説あり)を自らの人生をもって体現したといえるのは、まさしく本田技研工業(通称ホンダ)の創業者本田宗一郎ではないだろうか。
本田宗一郎は、1978年日本企業としては初めて北米に進出を果たし、オハイオ州メアリズビルに北米本社を築き、翌年からは工場を建てモーターサイクルの事業を始めた。
この工場を建てるにあたって本田は飛行機に乗ってアメリカ全域を数十回回りながら調査した。その理由の一つがその地域住民の人間性だった。
デトロイトやセントルイスなどのような地域とは違って、自動車工場や産業体での経験のない、勤勉で誠実なドイツ系の農村民で、教育や秩序、責任感、清潔感を重視する日本人たちと思考や生活が似ていたからである。
ホンダ自動車や日本の部品業はこれらの現地民を雇用することでアメリカ市場での進出に成功したのである。このように本田はなによりもひととの関わりや信用を重視するひとであった。
彼の経営パートナーは藤沢武夫であったが、一生涯彼を信用し、創業から引退までいっしょにホンダを育てた。その信頼の度合いとは、経営のすべてを藤沢に任せ切りで、本田自身は社印を触ったことすらないというほどであるから驚きである。
藤沢は経営、本田は技術に「一所懸命」であったのである。次のような逸話がある。
1963年日本政府が自動車メーカーの数を制限しようとすると、モーターサイクルの技術を応用してチェーン式スポーツカーを作った。
その時、ホンダアメリカ社長のテツオ・チノは、本田にスポーツカーの展示場を作るように指示され、藤沢副社長は販売用の業務用乗用車で展示場を作るように指示された。
困ったチノ社長は二つの展示場を作って二人にはそれぞれの指示した一つの展示場しか見せなかったという。チノによると二人とも展示場がもう一つあることには気づいていたけれども、お互いを尊重して、気づかぬふりして過ぎていったという。
これが本田と藤沢の信頼と尊重の形の象徴ともいえよう。
また本田宗一郎は、日本商工会議所会頭だった五島昇が戦後の日本で本物を作ったのはソニーの井深大と本田宗一郎と評したほどの人物である。
また彼は人格者としても有名で、河島喜好に社長職を譲った後、元社長の自分がいたら現社長が輝かないと就任式に姿も現さず、後任社長のために会社の近くにすら近寄らず釣りを楽しむといった隠居生活を楽しんだという非常に日本人らしく控えめで、謙虚なエピソードは口々に継がれている。
また本田は若者に夢と希望を与える企業家としても有名である。ホンダ自動車の企業文化は創意と革新の生きて動く組織と表現される。ホンダは規律と秩序、伝統よりは若い人たちのアイデアを尊重する企業文化を創業時代から維持してきた。
本田宗一郎は、素晴らしく有能な若者が責任をもって仕事しなければならないという考えを持っていたので、「最近の若いのは…」といったような若い人たちを非難する言葉を口にすることは決してなかった。
よってホンダ自動車は年功序列よりは実績による昇進制度が行われ、設立初期から権限と責任を若い人たちに委任しようと努力した。特にホンダは既存の体制に挑戦することを好む若者の自由な思考を尊重した。
本田が社長職の時、空冷式か水冷式かを技術者の間で議論したことがある。オートバイ技術者としてスタートを切った本田は空冷式を主張して水冷式を主張した技術者たちとは対立関係にあった。
横で見ていた藤沢副社長が「社長になるか技術者になるか選びなさい」と助言すると、「あ、そうだ。私が社長だった」と頭をかきながら一歩引いたことで問題が解決したという。
藤沢はのちに自分の自叙伝で「もしその時ホンダが空冷式にしていたなら、今日日ホンダは空冷式であっただろう」と著している。
このことから藤沢の本田に対する深い技術力への尊敬が垣間見られる。そして本田もまた、このエピソードから若い人の助言を傾聴できる人物であることがわかる。
このようにお互いに配慮し、尊重しようとした精神や、職人的あるいは武士的な一所懸命の精神、己の欲より会社全体を考えて行動した本田宗一郎がいたからこそ、ホンダは世界を圧巻する企業になったのではないだろうか。
日本では当たり前のことだけれども、海外ではそうではないといったようなことをよく聞かないだろうか。たとえば、宅配物の届く速度や信頼度、コンビニ店員の親切さや、電車の停車時刻の正確さや事故率の低さ。
これは日本の歯車となる国民一人一人が、本田宗一郎ほどとまではいわなくても、各々の場所で「一所懸命」「一生懸命」だからではないだろうか。
少しでも各々が手を抜いてしまっていたら、社会は歯車のように、うまく回らないようにできているものである。自分のいるべきところで、自分の最善を尽くす。
それは当たり前のようで、とても難しいことである。そしてこの精神こそが技術よりも裕福さよりも誇るべき日本人の宝ではないかと筆者は思う。
(参考)http://blog.naver.com/klcblog/90041059740
本田宗一郎がアメリカ進出の際に現地の人間性をもとに工場を建てたなんて、なかなか上図な目のつけようだと思った。韓国の「遠い国近い国」の本の日本の部分にとても興味がある。
反日野郎は消えてください
何いまさらゴマすってんだ?
都合がいい時ばっかりヨイショして擦り寄ったら良いことあると思ってるのか?
日本人の高潔な精神は、そういう行動を嫌悪する事をいい加減覚えた方がいい。
韓国の人はホンダからともにオートバイ作りを学んだ台湾との違いも学べき。
韓国人よ。ホンダは、経営者は世襲しない方針。
ホンダのエンブレムをパクった自動車会社は、そういうところはパクらないんだね。
ちなみに、韓国人が大好きなドイツのポルシェも一族経営の弊害を危惧して、ポルシェ家の人間は役員にはなれないぞ。
一族経営じゃない韓国大企業ある?
そんな本田宗一郎が部下に「二度と関わるな」と言った国があるそうですよ。
本田宗一郎氏が言ってたよね。
韓国=技術のノウハウを身に付けたらとたんに、もう結構ですサヨナラ。
台湾=ずっと感謝し続けてくれる。
本田宗一郎氏は韓国という国を身にしみて悟った。
以来、韓国のバイク産業は全く発展していないw
嫌韓の根は深いな。。。
この韓国人たちが何をしたって言うんだよ。。。
バイク→自動車→ジェット機
もちろんHONDAのジェットエンジンは独自開発です。
見境のない反日韓国人と同類の言葉を並べる バカ
文盲って言葉を知ってる?
韓国の人も日本の良いところは素直に認めている。いつまでも、嫌韓だの反日だのと言い合ってても前に進めない。
なんで、この韓国人たちを叩く必要があるのか。俺の美学に反する
※11
お前のような間抜けが騙され続けるのだ
韓国人はゴミの様な民族性を持ってるな。
とにかく韓国人は日本と日本人に永遠に擦り寄ってくるな。
日本人の技術と日本文化をパクりまくるとても卑しい民族性を持ってるからな。
韓国人はすぐ勝ち負けの話しになるけど、日本人の多くは勝ち負けではなく、モノには魂や神様が宿るからモノを大切にしたりモノを一生懸命作ったりするってことなのではないかな? 企業によってはモノを供養したりもしているし。もちろん負けず嫌いも大事ではあるけどさ。